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2010年5月31日月曜日

また月曜日が来た!

3人で赤ワインを2本と焼酎を1本空けて始まった先週の月曜日。渋谷ののん兵衛横丁で自分の父親ほどの歳の人が「この世界に神様はいない。あるのはエネルギーだけ。でも、考えがそこにたどり着いた時にはとてもさみしかったよ」と言った。

次の日の火曜日は朝の6時半に起きて仕事。

水曜日も朝は6時半、夜にはアルゼンチンからオシャレな靴やら小物などを輸入している方とごはん。自分が気にいった素敵なものを世界中から買いつける。自分だったら?と考える。たとえば去年行ったエジプト。南部ヌビア地方の銀のピアスと把手。

木曜日も6時半起き。ペルシアの詩と太宰治。
人間失格に引用されているルバイヤート。

「無駄なお祈りなんか止せったら
涙を誘うものなんか かなぐりすてろ
まァ一杯いこう 好いことばかり思出して
よけいな心づかいなんか忘れっちまいな」

「みんな聖経よみ違えてんのよ
でなきゃ常識も智恵もないのよ
生身の喜びを禁じたり 酒を止めたり
いいわ ムスタッファ わたしそんなの 大嫌い」

「どうにもできない情慾の種子を植えつけられた許りに
善だ悪だ罪だ罰だと呪わるるばかり
どうにもできない只まごつくばかり
抑え摧く力も意志も授けられぬ許りに」

午後は庭園美術館のロシア構成主義展。
写真とグラフィックデザインがすばらしい。
妙に印象に残ったのはマヤコフスキーのほとばしる商業文。

「招いていようとなかろうと
頼んでいようとなかろうと
お客はあなたの家へ
かならずやってきます

早くごちそうしなくっちゃ
でも家にはなにもない
パンはひからび
バターはネコが舐めちゃった

どうしよう……
状況は絶望的だ
さあ急げ
「お茶受けクッキー」を買いに行け

モスセリプロムの赤い十月社のクッキーは
コッペパンよりおいしくてお得
売店はどのアパートからもほんの二歩
どんな横丁にだってお店がありますよ」

金曜日は満月、大失態。帰りに本屋に寄って友人にジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を勧めたら、お礼にと高野文子の「るきさん」をいただいた。

土曜日はおしゃべりばかり。友人が使った「バイアスがかかっている」という表現がある人にぴったりで、でも自分からは出てこない表現で気にいった。当分やたらと使うかもしれない。

恋人よこれが私の一週間の仕事です ♪テュリャ

今週の買物。アルゼンチンのネックレス(裏はバラの形になっている)と構成主義展のプログラム。このネックレスも宗教モチーフだけれど、どうにもロザリオを「オシャレ」として身につけることに抵抗がある、ような気がする。

2010年4月11日日曜日

王城にて


数か月に一度の割合で喫茶店に集う会。今回は上野の「王城」でございます。ランプの下のところが魚だったり、珈琲を頼むとクリームや砂糖がはいった銀食器の中に惚れ薬がまざっていたり椅子がゴブラン織りだったりする素敵な空間なのだけれど開放的で入りやすい雰囲気。隣の席ではおじさまが膝にのせた新聞を読みながら、手にナイフとフォークを持ち200円のホットケーキを食べています。

木賃宿や赤線などの言葉をいちいち意味を説明することなく使え、また何気ない日々の現象を言葉で切りとる人たちなのでとりあえず思いついたことをひたすら話して情報交換。最近読んでいる本、写真をプリントする楽しみや女性誌表紙の目線についてなどなど。

そんな話題のひとつが小学5年生にして「ナポレオン・ダイナマイト(バス男)」にハマっている男の子。文化系男子の希望の星。その子と2人で手話のシーン(↓)を再現するという友人。10歳前後の友人の息子と年の差など関係なく接することができるというのは理想的。


Napoleon Dynamite_Happy Hands Club

5月に1歳になる甥も週末の旅行でいろいろな人と出会った結果、「照れる」という感情を覚えて帰ってきたらしい。やはり人間は社会的動物なのだ。

2010年2月9日火曜日

HER ABCENSE FILLED THE WORLD

先週の日曜日に新宿で観たのは「中川家の立ち話」。テレビそのままの中川家がでてきた劇場は思いのほか小さくて、不思議な雰囲気だった。生、ライブ、臨場感。音楽のコンサートともまた違う。

途中からでてきたゲスト、ハリガネロックの節約話はおもしろいというよりも感心する話。ただ、2、30円を節約するためにわざわざ近くの金券ショップでクーポンのようなものを買ってからマクドナルドに行くかというと、大きな疑問。凝り性なのだろうと思いつつ、常に男性の凝り性ほどめんどくさいものはないと切って捨てる友人を思い出した。その友人はとくにこだわりだらけで説明の多い「男の料理」を嫌う。

木曜日。去年の5月に産まれてハイハイを覚えたばかりの甥にひさしぶりに会いに行こうか考えた。妊娠して産んだはいいけれど育てられないので姉夫婦に育ててもらっている実の子に会いに来たような気持ちで、だれも見ていない時にこっそり甥を抱いてみようかと思ったけれど、考えを変えて東京国立近代美術館に行くことにした。この前こずえさんが東京に来たときによかったと言っていたので。ウィリアム・ケントリッジ―歩きながら歴史を考える、そしてドローイングは動き始めた…William Kentridge What We See & What We Know Thinking About History While Walking, and Thus the Drawings Began to Move。



なにか大切なことだったような気がするのに不明瞭であいまいな夢の記憶が蘇えってくるようなおもしろさ。

そしてこの前の日曜日は、2月20日から公開のメキシコ映画、ルドandクルシのイベント。最近活躍しているメキシコの3人の映画監督、アルフォンソ・キュアロン、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ギジェルモ・デル・トロが設立した制作会社、チャチャチャフィルムズの一作目、RUDO Y CURSI。こういうイベントって内容がグダグダのことも多いけれど、メキシコの地ビールCerveza Tijuanaを1本とメキシコ料理で1500円。野谷文昭先生のお話も聞けて満足。あまり日本で食べたメキシコ料理をおいしいと思ったことはなかったのだけど、もう一度食べてみたいと思った。どこのお店で食べられるんだろう?最後にはRUDO Y CURSIの劇場鑑賞券も抽選でいただいて払ったお金以上の利益を得て帰ってきた。メキシコのスペイン語が楽しみ、güey!!

2010年1月20日水曜日

ゼリーが揺れてもおかしい年頃


オロスコ自画像、MOMA、ニューヨーク

去年はオロスコの作品を見る機会が何度かありました。今まで縁がなかったのに急にいろいろな場所で立て続けに見かけると妙に意識してしまいます。というわけで、メキシコの画家オロスコの「メキシコの村(Pueblo Mexicano)」を見るためにもう一度ワタリウム美術館の「ルイス・バラガン邸をたずねる」展に行ってきました。バラガン(1902-1988)が自邸に飾っていた絵です。

日墨友好400周年を記念して、バラガン邸がメキシコシティから東京に引っ越してきました。情感的な静寂という空間を断片的に体験することができます。オロスコの絵と同様に飾られていたのが、ジョセフ・アルバースの「正方形へのオマージュ」。言ってしまえばただの色違いの正方形。中学生でも描けそうなくらいシンプルなのに、ずっと飽きずに見ていられるような不思議な魔力があります。こんな空間に住んでいたら外にでたくなくなるのではないでしょうか。今度は本物を見にいこうと思いました。

そして、今週の世界まる見え!テレビ特捜部を見て、天才だ!と感動したのがイギリスの料理人、ヘストン・ブルメンタール(Heston Blumenthal)。ビクトリア朝時代の晩餐では、ゼリーは揺らして楽しむものだったとご存知でしたか?色とりどりのゼリーがテーブルの上でぷるぷる揺れている様子は笑えます。

2009年12月19日土曜日

メメントモリ

金曜の仕事帰りは六本木。目的は森美術館で開催中の「医学と芸術展:生命と愛の未来を探る」

いろいろとつめこみ過ぎてぼやけてしまった感じがしないでもなかったけれど、展示されていた鉄製の義手は「科学(医学)と芸術が出会う場所としての身体」というテーマの象徴ともいうべき美しさ。でも、見た目は繊細だけれど使うとなると、重そう。ほかにも17世紀から18世紀頃の象牙でできたミニチュア妊婦解剖模型や女の人の身体のお腹の部分をめくると内臓と胎児がびろーんと見える仕掛け絵本のような医学書はキッチュなかわいさがある。

とくに印象に残ったのがWalter SchelsとパートナーBeate LakottaのLife Before Deathシリーズ。病で人生の時間があまり残されていない人たちの写真を本人や家族の了解のもとに撮ったもの。左に生前、右に死後まもなくと並べられている。ちょっと涙がでた。同情とかではなく、生と死は連続しているけれど決定的に断絶しているということが2枚の写真で迫ってくる。

見終わって展望室に行くと見えるのはきれいな東京の夜景。東京タワーもクリスマス仕様。でも、撮りたい時にいつもカメラを忘れてしまう。

2009年8月9日日曜日

¡Ay Güey Güey!





作家:アイ・ウェイウェイ
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示-非営利-改変禁止2.1日本」
ライセンスでライセンスされています。

森美術館で開催中のアイ・ウェイウェイ展は作品の写真を撮ってもいい。今まで許されなかった禁断の遊びは楽しい。こういうのもっと増えるといいな。

こずえさん、誘ってくれてありがとう。

2009年7月31日金曜日

大地の芸術祭

新潟妻有で開催中のアートトリエンナーレ2009。今まではふーんという感じで、特に興味はなかったのだけれど、美術手帳の別冊、大地の芸術祭ガイドブックをぱらぱら見ていたらジャネット・カーディフの作品も展示されるらしい。

作品の名前は『ストームルーム』。「夏の夕立に軒下に駆けこむ、そんな経験はあるだろう。しかし、この作品では屋根の下でも安心はできない。窓に雷光、木の影のざわめき。見えないものを見せ、感じさせる嵐を起こす」

すごくおもしろそう。行きたい。



2006年のMoMAで展示された作品『The Fourty Part Motet』。
40人の声を1人1人別々に収録して、それぞれ40個のスピーカーから再生してコーラスを完成させたもの。今ネットで調べていたら今年の春に銀座でも展示されていたらしい。残念。。

2009年7月21日火曜日

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか




国立近代美術館で開催中のゴーギャン展に行った。とにかくすごい人。ぞろぞろ進んで作品を見るのはとても窮屈だったけれど、思えば生涯を通してひとりの画家の作品を見るというのは初めて。その人の傑作を一点どーんと見るよりも、時期による変化が見えておもしろいかもしれない。

ゴーギャンと言えばなんとなくすごい自我の強い人というイメージがあって敬遠していたのだけれど、今回観に行こうと思ったのは、ポスターで見た彼の絵の色がとてもきれいだったから。でも、もちろんそれがゴーギャンの時代の先端だということはわかっているけれど、5月に行った森美術館のティッセン・ボルネミッサ現代美術財団「万華鏡の視覚」という展覧会と比べてしまうと、見るという感覚だけに頼った絵画の限界というものを感じてしまったし、キャプションも言葉は多いのになんだかものたりなかった。

「万華鏡の視覚」で特に印象に残ったのが、ジャネット・カーディフの《触ること》Janet Cardiff "To Touch"。暗い部屋にスポットライトのあたった古い木造の机が置いてあって、その机の表面を触るとセンサーが反応して部屋の暗がりからささやき声や車のぶつかる音などが聞こえてくるというもの。聴覚と視覚で呼び起される感覚というのは初めてなのになんだか懐かしい。外部からの刺激に呼応して内部の眠っていた記憶がよみがえる感覚の蠢きがとても心地よかった。

「光、色、音、言語、概念、コミュニケーション。視覚だけでなく、聴覚や触覚など、人間のさまざまな感覚をあらゆる方向から刺激する作品と出会い、現代アートの醍醐味を体感」するという説明が明確に伝わってきてとてもおもしろかったのだけれど、そう私から薦められて観に行った友人は逆に感覚が揺さぶられてしまって目眩。気持ち悪くなってしまったという。なかなか難しい。

帰ってきて芸術新潮7月号、ゴーギャンの人生という特集を読む。ゴーギャンがやたら13歳の女の子にちょっかい出していたことを知った。

2009年3月23日月曜日

3時間ミャンマー



知人が前座で参加するライブを観に行った。

メインのバンドを知らなかったので最初は「どこの国の人だろう?」と思ったのだけれど、ミャンマー語の古くからの言葉(パリ語)でsupernatural mind“特別な心”という意味のIZZATTAというメンバー全員ミャンマー出身のバンド。結成1周年の誕生パーティと大塚のミャンマー仏教徒寺院設立のための寄付という目的のライブ。

8人編成、おそらくバンドリーダーであろうリードギター。気持ち良さそうなドラム。淡々と演奏するセカンド・ギター。笑顔で周囲に気配るベース。入れ替わり立ち替わりゲスト含め数人のボーカルが歌う。黒いTシャツの見た目からもうちょっと激しいのを想像していたのだけれど、予想外になめらかなポップやバラードの演奏。観客もところどころで合唱。演奏の合間合間にステージとフロアーで飛び交う笑いとミャンマー語。言葉はわからないのだけれど、みんな楽しそうでそんな気分が伝染した第1部。第2部は想像していたようなロック。やはり次々にボーカルが替わるのだけれど、その中でもパーカッション兼ボーカルの人の歌声をもっと聞いていたかった。素敵だったから。

BBCのThe Restaurantという番組でフランスの有名シェフ、レイモンド・ブランが「ニコラ、君の料理は最高だよ。。家庭料理のレベルではね。でも、お金を払うとなると話は別だ」と言っていたけれど、いますぐ青春小説または映画になるのではないかというほどメンバーの個性がしっかりしていて初めてかつ話している内容がまったくわからないにも関わらず、勝手に親しみを感じてしまった私はもし機会があれば是非もう一度彼らのライブに行きたいです。お金払って。

2008年12月13日土曜日

勝利の女神。



アール・ヌーヴォーとアール・デコの時代のフランスで活躍した工芸家、ルネ・ラリック。

最近、興味が自分の中で再燃している分野。

したがって、家族旅行とはいえ、興味のない家族とは別行動。
ひとり、箱根ラリック美術館へ行ってきました。

そして、心臓を射抜かれてしまったのが、「ヴィクトワール、勝利の女神」。上の写真。
1920年代の車のラジエーター・キャップにつけるマスコット。
つまり、あのベンツの車の先っぽに付いているものなのだけれど。

車のメタルな質感とガラスの優美でなめらかな質感の組み合わせが強烈で目が離せません。

ほかの作品、花瓶にしても、ネックレスやら飾り襟などの装飾品にしても、
グロテスク、でも、しつこくないし、不快でもない。すごく惹き付けるのです。

エロティシズム、官能性、素材としての美、
この3つが『アール・ヌーボーの世界』(中公文庫)には
アール・ヌーボーの特徴として挙げられていたのだけれど、
言葉で表現されていることが見て感じたこととつながった感じがしました。

特に、何点かラリックの娘の作品も展示されていたのですが、
官能性と素材のつくりだす緊張感というか迫力のようなものが感じられず、
私の眼には退屈な作品に見えたのでした。

帰りには、小田原で1814年創業のかまぼこ屋さん、『かごせい』で籠青の黒というかまぼこを購入。
いか墨が練りこんであるのだけれど、このイカ。 ジャポニズム。


2008年11月16日日曜日

風神とライジングサン。



琳派展でひさしぶりのおひとりさま活動。

夏の『対決-巨匠たちの日本美術展』以来、俵屋宗達のことが気になる私。
今回も光琳やら抱一やら其一やらはそっちのけで宗達、宗達。

力強い勢いと華やかさが拮抗する緊張感。
他の人が書いた『風神雷神図』と見比べてみても、やはりその差は歴然。

養源院の杉戸の動物絵も迫力も華もあるのに邪魔にならないスッキリした感じ。
それにしても、阿吽で対になっているのをみるとなぜか心が疼きます。狛犬とか仁王とか。

夏、ある宗達の絵に付けられていた「デザイン性の高い作品」というのを見て以来、
江戸時代の屏風と「デザイン性」という言葉の違和感が消化できなくて気になっていたのだけれど。

マガジンハウスの雑誌、『BRUTUS』の琳派特集号に答えを発見。

『エゴがなく、「美しい」をストレートに伝えることのできる図像を、
 現代では「デザイン」と呼ぶ。 
 だから「琳派はデザイン」だし、「見ればわかる」のだ。』

そうか、そういうことかと納得。

宗達と光悦のコラボ作品も素敵でした。
常日頃、あまり和文の書はおもしろくないと思っていたのだけれど、光悦の書はさすがの魅力。
でも、同時に公開されていた日常の文(手紙)の字はけっこう適当で、
(見る人が見ればそのキラリと隠れたセンスに気づくのかもしれないけれど)
その力が抜けた感じもおもしろかったです。

琳派の名前の由来である尾形光琳の作品は、どことなく女々しい気がします。

それとこれとは関係ないのですが、
光琳が描いたパトロン中村内蔵助の絵のキャプションに
「とりわけ親しい」、「愛しささえ」といった言葉が並ぶのを見て
腐女子的想像が走り出してしまうのを抑えることができませんでした。

琳派という連なり、残念ながら後世に行けば行くほど力強さがなくなっていく気がしました。
閉館時間も迫って足早に抱一、其一の作品を見ながらも、やっぱり宗達のことが忘れられなかったのです。

2008年9月24日水曜日

個性


東京都写真美術館で開催中の『ヴィジョンズオブアメリカ展』

肩にカメラをさげたおじさんが、奥さんが必死に止めるのも構わず、
「これだよ、これ!!俺ぁ、これが見たかったんだ!!」
と叫んだ写真は、アンセル・アダムスの『月の出、ヘルナンデス、ニューメキシコ』。

ベルベットのようになめらかな黒い空に浮かぶ月、流れる雲、
浮かび上がる教会と墓地のスケールの大きさは確かに強烈。

キャプションには、「多くのアメリカ人が愛してやまないイメージ」の言葉。
確かに、アメリカらしい、アメリカっぽい写真が並んでいるのだけれど、
その中で日系人の写真家の人が撮った写真を見て、懐かしい、
というかこの感覚なじみ深い、と思ったのはその浮世絵的構図のせい?

思い出したのは、ドウス昌代著『イサム・ノグチ、宿命の越境者』。
イサム・ノグチの一生に付きまとった「あいのこ」という評価。
アウトサイダーゆえの帰属性の希薄さと帰属への願望を創造の原動力としたアーティスト。

「半分はその国の血が流れているのだから、アメリカでも日本でも、ある程度は信用されてきた。同時にいつも、日本ではあまりにもアメリカ人であり、反対にアメリカではあまりに日本的と言われつづけた。換言すると、ぼくは、日本では十分に日本人ではなくアメリカでは本物のアメリカ人と認められずにきたようなものだ。。。」

世界中にマクドナルドがあって、日本食レストランがあるこのご時世、
あまりに日本的であるとか、あまりにアメリカ的という言葉の感覚がとても薄かったのだけれど、
あの写真を見てストンとなんだかこの感覚は知っている、と思ったことが日本的、という感覚なのかも。

一方、
最近よく聞いているラジオ番組で国境という枠組みに縛られずに人や文化が交流する現代、普遍化が進むことによって世界中の、いろいろな国のオーケストラの音に特徴がなくなり、没個性的となっている、という話を聞く。

国や文化という個性が一般化したときに台頭する個性っていったいなんだろう。

2008年7月27日日曜日

デザインというもの。


東京藝術大学大学美術館でやっていたバウハウス・デッサウ展にそのオレンジ色のチラシに惹かれて行ったのは、7月の初め。

”1919年にドイツ、ヴァイマールに誕生した造形芸術学校、バウハウス。ヴァイマール、デッサウ、ベルリンと拠点を変え活動し、1933年、ナチスの台頭とともに閉校を余儀なくされたバウハウスは、やく75年経った今も、世界中のデザインや建築に影響を与え続けています。”

自分が興味を持っている分野ではいつだってある程度のアンテナは張っているつもりなのに、
ある日急にドアが開いて風通しがよくなったかのように今まで見えてなかったものが見えるときがある。

そういう時って、ワクワクする。今回もまさにそういう感じ。

こ、これ、が、デザイン、と、いうもの、なの?

タイポグラフィー、字を見て興奮。
文字が意味持つから、ではなくて。
字の造形、形、線そのもののちから。

2008年7月20日日曜日

おひとりさま映画祭。

ひとりで東京国際レズビアン&ゲイ映画祭に行ってきた。
というと、結構驚かれるのだけれど。

その紹介作品の中のミュージカル率の高さを思えば必然でしょ。

観たのは。

WERE THE WORLD MINE シェイクスピアと僕の夢

ミュージカル好きのゲイの男の子ティモシーが学校の授業で
シェイクスピアの『真夏の世の夢』で妖精パックを演じることに。
台本にでてくる伝説の媚薬のレシピを偶然見つけたティモシーは、
まず薬で学年の人気者ラグビー選手を自分に夢中にさせ、さらに町全体を。。。



会場で思わず笑ってしまいました。
だって、ティモシーの妄想で授業中にクラスメイトが踊りだしたりするんだもの。

『バッド・エデュケーション』を観たときには、
その男子だけの閉塞的な空気に、女子の入る余地が全然なくて観終わった後に呆然としたけれど、
『シェイクスピアと僕の夢』は観終わった後に、楽しい気分になれた。
(ただ、ティモシーの憧れの彼が見目麗しいだけという感じが気に入らなかったけれど)

でも、問題はその後に観た、

LES CHANSONS D'AMOUR 愛の歌、パリ

なんだか、意味がわからなすぎて要約もできない。。。

次の日の午前中も、その意味のわからなさが頭の中をグルグル廻る。
フランス映画って、意味がわからない意味がわからないってよく言うけれど。
この意味のわからなくてグルグルするのを愉しめばいいってことなのかな?



でも、最近日本で公開されるフランス映画って、
『○○○、パリ』とか『パリ、×××』という邦題が多くて、??と思っていたのだけれど。
この映画で納得。あの街って、匿名の出演者というか、主演と対当する存在感。

時間が合わなかったのだけれど、
スペイン映画のCHUECATOWNも観たかったな。”熊系”カップル。

2008年6月25日水曜日

菫の花咲く頃。






それはそれは清らかに澄みわたる川の流れのような、爽やかな舞台でございました。

見てきました。初宝塚!!

Me And My Girl

といっても、正確には今回は一人ではなくて、連れて行ってもらったのだけれど。
(カイトさん、どうもありがとう!!)

キラキラじゃなくて、綺羅綺羅!!
男役の人は足が長いし、女役の人たちの鎖骨と背中の美しさったら。

観終わった後は、なんだか私も踊りたくなる。
マスゲーム好きの金正日の気持ちだって、この点に関してはわからなくもないくらい。
(といっても、あの笑顔は無理だし、もちょっと人数少なくていいし、それに現代的な感じでお願いしたいけど)

上野駅の広くて高さのある中央改札口を通るたびに
ここにフランク・シナトラみたいな人が現れて、
そしたら急にサラリーマンやらOL、制服着た学生や駅員さんとかがみんなで踊りだす、
みたいなことが起きたらいいのにと思う。本当に。