2008年9月24日水曜日

個性


東京都写真美術館で開催中の『ヴィジョンズオブアメリカ展』

肩にカメラをさげたおじさんが、奥さんが必死に止めるのも構わず、
「これだよ、これ!!俺ぁ、これが見たかったんだ!!」
と叫んだ写真は、アンセル・アダムスの『月の出、ヘルナンデス、ニューメキシコ』。

ベルベットのようになめらかな黒い空に浮かぶ月、流れる雲、
浮かび上がる教会と墓地のスケールの大きさは確かに強烈。

キャプションには、「多くのアメリカ人が愛してやまないイメージ」の言葉。
確かに、アメリカらしい、アメリカっぽい写真が並んでいるのだけれど、
その中で日系人の写真家の人が撮った写真を見て、懐かしい、
というかこの感覚なじみ深い、と思ったのはその浮世絵的構図のせい?

思い出したのは、ドウス昌代著『イサム・ノグチ、宿命の越境者』。
イサム・ノグチの一生に付きまとった「あいのこ」という評価。
アウトサイダーゆえの帰属性の希薄さと帰属への願望を創造の原動力としたアーティスト。

「半分はその国の血が流れているのだから、アメリカでも日本でも、ある程度は信用されてきた。同時にいつも、日本ではあまりにもアメリカ人であり、反対にアメリカではあまりに日本的と言われつづけた。換言すると、ぼくは、日本では十分に日本人ではなくアメリカでは本物のアメリカ人と認められずにきたようなものだ。。。」

世界中にマクドナルドがあって、日本食レストランがあるこのご時世、
あまりに日本的であるとか、あまりにアメリカ的という言葉の感覚がとても薄かったのだけれど、
あの写真を見てストンとなんだかこの感覚は知っている、と思ったことが日本的、という感覚なのかも。

一方、
最近よく聞いているラジオ番組で国境という枠組みに縛られずに人や文化が交流する現代、普遍化が進むことによって世界中の、いろいろな国のオーケストラの音に特徴がなくなり、没個性的となっている、という話を聞く。

国や文化という個性が一般化したときに台頭する個性っていったいなんだろう。