月曜日は自分でも驚くほどの凶悪な気持ちで満ちていて、そういう日に限って我慢して抑えている猟奇的な部分を周囲が刺激する。イラっとするたびに握り潰しフォークで刺された私の心の中の鳥。
荒廃した気持ちを鎮めるために、水曜日に観に行ったのが「英国王のスピーチ」。まだ荒れたままの気持ちは多くの銀座女子が鼻にかかった声で話すことや、カズオ・イシグーロの「わたしを離さないで」に出ている新生スパイダーマンの顔の小ささと首の長さにすらイラついて、映画を楽しめるのか危惧したけれど素晴しい映画でした。
同じくアカデミー賞にノミネートされていた「ソーシャル・ネットワーク」は社会的責任という意識が薄く、"cool"という感覚だけを求めて、その道程で友達を切り捨てることも厭わない、いわゆるYジェネレーションの話だったけれど、それとは対照的に「英国王のスピーチ」が描いているのはメディアが発展し具体的な王の肖像や声がテレビやラジオを通じて伝えられるようになる中で、国民が期待する「王」という役割と責任を引き受けるためにジョージ6世が努力する姿。
吃音症に苦しみながらも立ち向かっていく姿には、か、か、感動を覚えずにはいられないけれど、観賞後に私が考えたのは大正天皇。大正天皇といえば遠眼鏡事件を思い出す人が多いかもしれないけれど、原武史の「大正天皇」や、F・R・ディキンソンの「大正天皇」を読むと如何に彼が近代国家の象徴としての「天皇」という役割を期待された存在だったのかわかるし、彼がそういう枠に収まらない気さくで、気分屋でもあったみたいだけれど、素直な人物だったのかも伝わってくる。
一方で、浅見雅男の「皇太子婚約解消事件」では、伏見宮禎子女王と嘉仁親王(大正天皇)の婚約が禎子女王の健康問題を理由に解消され、器量がちょっと、性格がちょっと、身長がちょっと、とリストから候補者が消されて最終的に九条節子(貞明皇后)に決まった事情と周囲の思惑を明らかにしていくけれど、そこで提示されるのが明治天皇の「天皇」であることへの意識の高さ。
それに比べて、禎子女王との婚約が破棄された後に、誰が次の婚約者になったのかをしきりに尋ねたり、結婚後まもなく日光の御用邸へと出かけた際に皇太子が近所の鍋島別邸にあまりに頻繁に出かけるので、美人と有名な鍋島公爵の次女、伊都子に会いに行っているのではないかと気分を害した節子妃が東京に帰ってしまったりと嘉仁親王のエピソードは人間味があふれている。
ジョージ6世は結果として国民にも敬愛されていたようだけれど、時代の要請に応えられず潰れてしまったのが大正天皇ではないかと個人的に思っている。こういった悲劇的な天皇という視点が出てきたのもここ10年くらいとのことで、今までの大正天皇のイメージを払拭できたらいいと思うけれど、一方で、歴史って史観によってずいぶん認識が変わるものなので事実とは何なのだろうとも思わずにはいられない。
本編とは関係ないけれど「英国王のスピーチ」で印象的だったのは、英国の壁紙の効果的な美しさとジャケットの仕立て。そして、コリン・ファースが戴冠式の練習とその後戴冠式の映像を家族で見ているときに内股座りだったとこ。あと、よくイギリス映画で見かけるあの個性派俳優のチャーチルの演技は成功なの?失敗なの?ちなみに「ソーシャルネットワーク」で気になったのは双子のウィンクルボス兄弟のダブルスタントの方の小芝居とジャスティン・ティンバーブレイクの繊細なんだか未完成なんだかよくわからない曖昧な顔の造形でした。
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